父齋藤貞雄は新聞、業界紙、雑誌他にかなり原稿を書き、それらをまとめた著作本も数冊あります。その中で中山の昔の題材のものを拾いました。

小栗原の思い出 齋藤貞雄
私の家が船橋に引き越してきたのは昭和の初期、行政的には東葛飾郡葛飾町字小栗原であった。もう七十数年前になる。まだ本当に田舎だった。駅の近所でも畑や空き地があちらこちらにあって、夜になると真っ暗闇で淋しかった。それまで住んでいたのが東京の中心の日本橋であったから、母親は『とんでもない田舎に引っ越してきたものだ。お父さんにだまされた』と父親に食って掛かっていた。その後の夫婦の仲が悪くなったのもこれが一因だったかもしれない。
昭和何年かに船橋市が出発した時に合併して船橋市小栗原町となった。現在は小栗原という地名は無くなて、わずかに小栗原小学校がその名前をを引き継いでいるに過ぎない。新しく引き越してきた住民には小栗原の地名があったのを知らない人が多いだろう。小栗原の代わりに本中山となった。本中山と称号すると隣の市川市には中山町というのが昔からあったのだから、中山から文句が来るのではないかと心配したが、別段出なかったらしくいとも簡単に小栗原の町名は無くなってしまった。当時全国的に町名変更をやった時代で、あちらこちらで昔からの由緒ある町名がいとも簡単に、無機的なつまらない新町名に大した抵抗も無く変更されていった。今になって思えば、あの時の町名変更は明治維新のときに、新政府が神仏分離で各地の仏像を片っ端から壊してしまった愚行と同じであった。なぜもっと抵抗して由緒ある町名を残しておかなっかたのかと悔やんでも今更仕方が無い。
私などは大いに小栗原の名前には執着があったけれど、さりとて現在まで住所が船橋市小栗原であったとしたら一寸あまり田舎的な名前で他人に『お宅はどちらにお住まいですか』と聞かれたら小栗原と大声で答えるのが少しためらったかもしれない。小栗原を小栗が原というとますます田園調になる。
地元の住民たちも昔から最寄の駅名が国鉄下総中山と京成中山だったから小栗原という名を捨てるのに未練もなっかたらしい。なにしろ小栗原の住人たちというのは戦後西船に新駅が出来る時に、それまで下総中山駅に入っていた路線バスを全て西船駅に移動させる運動をした不思議な感覚を持っている人たちである。おかげで我が家などそれまで木下街道で白井、鎌ヶ谷などから来院していた昔からの患者に西船にもって行かれてしまう事になってしまった。口腔外科の教授でやかましいので有名だった宇賀先生は白井村の出身で下総中山駅から木下までのバスが時間が開きすぎると我が家え寄って一休みしていったものである。おかげで何かと可愛がって頂いて助かった。あのうるさい宇賀先生がお前には案外やさしいなあと友人たちに不思議がられたが、現在のようにバスが西船駅から出るようになっていたらああはいかなかったろう。よかった。
最近になってまた中山駅にバスを乗り入れて貰おうというる話が出てきているらしいけれど果たしてどうなるやら判ったものではない。
当時は西船は勿論だが本八幡の駅もまだなっかた。市川の次が下総中山で次が船橋であった。総武線の中でも由緒と伝統のある駅だった。それが今でも総武線の数ある駅の中で一番乗降客が少ない駅だそうである。本八幡と西船橋の繁華街にお客をを持っていかれた感じである。周辺地区に歯科医院は我が家と市川側の上田歯科医院の二軒だけだった。それが今やなんと何十軒歯科医院があるのか、中山も歯科医院数に関してだけは随分増えたものである。
今でこそ駅の南側が賑やかになってしまったが、当時は駅に南口も無く多少の軽蔑の意味を持って駅下だなんて町のの人たちには呼ばれていた。、住宅も二三十軒ぐらいもなかったろう。南の方は原木二俣まで一望の田んぼだった。それが今や駅下がすっかり賑やかになって逆に昔の町並みがさびれてしまい、まるで駅下が駅上に逆転してしまったようだ。

駅下が駅上になった 齋藤貞雄
親父が現在地に歯科診療所を開設したのは昭和始め頃だから、もうかれこれ八十年近くなる。当時国鉄の下総中山駅は北口しかなく、商店街も住宅街もみんな北口にあった。当時は出入り口は北側一つだから北口というのもおかしいのだ。南側はほとんどが田んぼでその中に数十軒の家が建っていた。春になるとおふくろが田んぼのあぜ道ででせりやクコを採ってきた。美味しかった。夏は小川で水泳をした。
戦争中になるとその田んぼの中に軍需産業の小さな町工場が出来た。それが戦後閉鎖になって小学校に転換すのだが、なにしろ駅の出入り口が北側だけしかないのだから、小学生も住民も南側に行くには駅を出てから、大回りして線路の踏み切りを渡って行かなければならなかった。中山という地名だから北側には砂質のいい低い丘状になって、そこからなだらかに南側に下がって田んぼへ行く地形であり、何時からか町民は南側を駅下と呼ぶようになったらしい。大雨が降ると北側からの雨水が線路に遮られ、踏み切り下の細い水路に流れ込んで氾濫し道路も水浸しになった。小学生が通学の際にそ水路に落ち込んで流されて危うく一命を落とすところだった。危険だから踏み切りの拡張運動をやったのだが結局鉄道が高架になって家の親父が亡くなった三十年前頃まで改善しなかった。高架になって駅に北口南口が出来たのは親父は死んでから後で、親父は見ていない。
その親父がよく、別に今騒がれている差別の意味ではないのだが、来院する患者の地域によって患者の質が違うと言っていた。たとえばある地域の患者は総じて金に渋いとか、ある地域の人たちは金払いがいいとかである。親父の現職時代は保険患者なんて当てにしない殆ど自費で、歯科医と金の材料が切れない時代である。医療費だって取れる人からは頂くがとれない人からはとれなかった。金持ちのくせに出費しない部落があれば部落中なんとなく気風がいい人が揃っていたところもあった。まあ今でも一般に山手と下町という言葉がが生きている、そんなセンスで軽い意味での発言だから許して欲しいのだが、そこで駅下とか駅上との表現になったのである。時々「どうも駅下の患者は」なんて言葉が吐かれ聞いたのを覚えている。
ところが鉄道が高架になって所謂駅下側にも出入り口が出来て、踏み切りの遠回りしなくても済むようになってから何年かしたら状況は一変してしまった。農家がどんどん田んぼを手放すようになって埋め立てられて、住宅商店街が見る見る建設されるようになった。駅上を通っていた国道の他にバイバスが駅下に通り車が移動して、昔からの老人人口の多い駅上に比べて若い住民が多い駅下は人口も多くなんと言っても活気がある。何時の間にか市場とか大型スーパーが建ち並び、そこに逆に駅上の住民が買い物に駅の中を通って買いに行くのである。元来が駅上はお寺で栄えた門前街だが最近のように宗教心が薄れて縁日以外は参詣人も少なくなって、老人が散歩にブラブラするぐらい、何しろ地元の銀行支店が老齢年金の支払いが県下一だとの事である。ここのところ昔からのお店が毎日のように店を閉め昔からの建物が壊され更地になっていく。出来増えるのは歯科医院だけである。一方かっての駅下は大型のマンションがたちならんでスーパー電気店等が軒を並べて開店、いまやどちらが駅下でどちらが駅上か逆転してしまった。
そういえば昔来ていた不動産屋の親父が「先生、中山は発展しないよ、法華経寺が参道の突き当たりに大きな地所を占有しているし、競馬場も開催の時は何万人観客が来ても普段は閑小鳥、そのうち厩舎も移動するし、商業的には発展しない土地だよ」といっていた。すっかり彼が言っていたことが駅上に関しては的中してしまった。栄枯衰勢や下克上は世の習いといえ人の世と同じに町にも歯科医師界にもあるようだ。親父が生きていたら何と言うだろうか。





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